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2024年4月13日 「高い城の男」のアイロニー

終極の語彙

リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』第四章「私的なアイロニーとリベラルな希望」の冒頭にこう書いています。

人間は誰しも、自らの行為、信念、生活を正当化するために使用する一連の言葉をたずさえている。

この「一連の言葉」をローティは「終極の語彙」と呼びました。

もう少し読みます。なぜ「終極」なのか。

それが「終極」であるのは、こうした言葉の価値を疑われたときに、この言葉を使う者は循環論法に陥らざるを得ない、という意味においてである。

私の語彙に置き換えるとこういうことです。

ひとはしばしば「自らの行為、信念、生活」について理由を聞かれて答えるときがあると思います。なぜそうしたのか、なぜそう考えるのか、なぜそう思うのか。そして、たとえば、それが好きだから、と答える。懐疑的なひとはさらに聞くでしょう。それでは、どうしてそれが好きなのか、と。まだ、答えられると思います。たとえば、こういうところが良いから、と。それでもまだ懐疑は続けられるでしょう。どうしてそれを良いと思うのか。

このような問いは続ければ続けるほど何か深いところに立ち入るものです。そして、もうそれ以上答えようがないところまでたどりつく。もしかしたら、それがそのひとの本質となるようなものなのかもしれません。しかし、ローティはきっとそう考えない。本質というよりは、それ以上は答えられない行き止まりでしかない。だから、「循環論法に陥らざるを得ない」という言い方をするのです。

あらゆることを打ち明け合う。つまり、本音本心が明らかになり深い関係が成り立つ。たしかに、そういうところもあると思います。ただし、きっともうひとつの可能性もある。ローティが言いたいのはおそらくもうひとつの方です。

アイロニスト

ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』で「アイロニスト」と呼ぶ人物像を描いています。

アイロニストとは以下の三つの条件を満たす者であると定義してみよう。第一に、自分がいま現在使っている終極の語彙を徹底的に疑い、たえず疑問に思ってる。なぜなら、他の語彙に、つまり自分が出会った人々や書物から受けとった終極の語彙に感銘をうけているからである。第二に、自分がいま現在使っている語彙で表された論議は、こうした疑念を裏打ちしたり解消したりすることができないことがわかっている。第三に、自らの状況について哲学的に思考するかぎり、自分の語彙の方が他の語彙よりも実在に近いとは考えてはいない。

手短にまとめてしまうと、アイロニストとは

  1. 「終極の語彙」にたえず疑問があるが感銘もうけている
  2. 「終極の語彙」を十分に保障するものはないと知っている
  3. 「終局の語彙」に正しい正しくないの比較はできない

と思っています。つまり、こうです。「自らの行為、信念、生活」の問いを繰り返した先にある回答に「本当に?」とも思いつつ「素晴らしい!」とも思うのです。そして、「本当に?」という疑問は解消されないし、さしあたり関心もありません。でも「素晴らしい!」のです。

額面通りに受け取ってほしい

「じゃ、なぜあのご本をお書きになりましたの?」
自分の手に持ったグラスでそっちを指しながら、アベンゼンは言った。
「あなたがドレスにつけたそのブローチは、どういうものです? 普遍の世界の危険のアニマ霊を除けるためかね? それとも、一切合切をまとめ上げるだけのことかね?」
「なぜ話題を変えようとなさるんですか?」ジュリアナは言った。 「あたしの質問をそらして、そんな無意味な言葉でごまかそうとするなんて。子供じみています」
「人間にはだれにも――技術上の秘密があるものだ。あなたにもある。ぼくにもある。ぼくの本を読むなら、それを額面通りに受け取ってほしい。ちょうどぼくが――」ふたたびアベンゼンは自分のグラスで彼女を指し示した。 「そのドレスの中にあるのが本物なのか、それとも、ワイヤと支柱とフォームラバーの詰め物で作られた代物なのかと聞きださずに、見たものをそのまま受け入れているようにだ。それが人間の本性を信じ、自分の見るもの全般を信じると言うことの第一歩じゃないのかね?」

フィリップ・K・ディック『高い城の男』の最後の場面です。

私がローティの「アイロニスト」に当てはまる人物として思い浮かんだのがこの「高い城の男」であるアベンゼンです。

アベンゼンは「じゃ、なぜあのご本をお書きになりましたの?」という質問にごまかして答えます。真面目に答えようとしないわけですね。それはアベンゼンなりの考え方があるのです。つまり、「額面通りに受け取ってほしい」からです。

たとえば、その質問をしているジュリアのドレスについて、もしかしたら「ワイヤと支柱とフォームラバーの詰め物で作られた代物」なのかもしれないけど聞き出そうとはしない。「額面通り」素敵なドレスだと思う。アベンゼンによれば、「それが人間の本性を信じ、自分の見るもの全般を信じると言うことの第一歩」なのです。

高い城の男

『高い城の男』の舞台は第二次大戦後のアメリカです。しかし、現実の歴史とは違ってアメリカが敗戦している。そして、代わりに日本とドイツが戦勝国です

そのため、アメリカは日本の占領下にありアメリカ人は苦しい生活を強いられています。そして、こう思うわけです。本当だったらアメリカが勝っていて、こういう苦しい生活をしていないはずなのに。

苦しい生活に身を置く主人公たちはいまの世界を正しい歴史に見えなくなっているのです。しかも、読者からすると、その通りなんですね。同じようなことが私たちにも日々あると思います。何かの選択が誤り、不本意な結果を受けているとき、あのときああするべきだったのに、と。

そして、こうまで思うはずです。その選択が誤っていなかったらこうなっていただろう、と。『高い城の男』の仕掛けはそこにあります。この物語上ではある小説がひそかに読まれています。その小説が、アメリカが戦勝国日本とドイツが敗戦しているという世界を描いたものなのです。

この物語の主人公たちからすれば、この小説こそが正しい歴史に見えるし、『高い城の男』の読者である私たちもその小説こそが正しい歴史であると知っている。

そして、この小説を書いたのが「高い城の男」であるアベンゼンであり、そのアベンゼンにどうしてこのような小説を書いたのか聞き出すために会いに行くというのが『高い城の男』の物語です。

人類の会話のための哲学

朱喜哲さん(2024年2月のEテレ「100分 de 名著」で『偶然性・アイロニー・連帯』を紹介されていました。私がこれを書くきっかけになったのもこの番組です)は『人類の会話のための哲学』で「ローティという不世出の哲学者を、〈人類の会話〉の守護者であろうとし続けた人物として再発見する」と書いています。

たしかに、アイロニストは会話を守ります。

というのも、アイロニストは額面通りに受け取るからこそ、立ち入ったことは聞こうとしません。こういってよければ、アイロニストは騙せるということです。つまり、本心を打ち明けなくてもいい

しかし、だからこそ本心を打ち明けられるのかもしれません。たとえば、ひとつひとつの答えに満足しない相手がいたとします。それは本当の答えではない、と。そして、正しい答えを探しに立ち入られる。一方で、いい加減な答えでも何やら何かを察してなのか分からないけど満足してくれる相手であれば、不用意で無責任なことも言える。

「終極の語彙」とは、それ以上答えられないということですから、つまり、それ以上会話を続けられないということでもあります。いわゆる「それを言ったらおしま」「身も蓋もない」わけです。

何かの話し合いをしていても相手の口を噤ませる語彙ってあると思います。たとえば「あなたに私の気持ちが理解できるのか」。たしかに理解はできないし、理解ができない以上何も話すべきではないのかもしれません。正しいかもしれないけど、会話はそこで終わってしまいます。

少なくとも私が心を開いていろいろなことを打ち明けられるひとは、こちらのいい加減な答えにも満足してくれるひとですし、理解はしてくれるけど追及はしないひとです。つまり、額面通りに受け取ってもらえる。そして、もしかしたら、それがいい加減な答えであることも相手は気づいている。それを分かったうえで、きっと細かく話すと難しい何かがそこにあるのだろうから、それ以上答えなくもかまわないです、と。

こういうのもたまにはよかろう! ってことで、書いてみました👍